Dissertation
Survey: Yanaijima / 柳井縞(山口・柳井市)
衰退から長い年月が経ち、その存在すらも忘れられつつあった柳井縞に改めて目が向けられるようになったのは、今から30年近く前。地元のある民家から、一台の古い高機が発見され、市へ寄贈されたことがきっかけだった。
| Category: | Survey |
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| Date: | 2017.08.22 |
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| Tags: | #survey #yanaijima #山口 #柳井縞 |
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"Survey"とは「調査・検分」の意。〈visvim〉が日々、ものづくりをする上でインスピレーションを与えてくれる魅力的なモノ、人、場所、文化などさまざまなトピックを独自の視点で取り上げ、レポートします。

人々の暮らしとともにあった、「幻」の織物を求めて。
山口県東部、室津半島のつけ根に位置する柳井の街は、江戸時代以前から「柳井津」と呼ばれ、海上交通の要となる瀬戸内屈指の商港として栄えてきた。この地では江戸初期には木綿の生産が盛んになり、木綿商人が織り手の職人に原料の素材と手間賃を渡した後に製品と引き換える「綿替」という手法により発達。宝暦10年(1760)から岩国藩が始めた織物の検印制度により、高い品質が保証された柳井木綿は、街の中心を流れる柳井川を通って他藩へ送られた。万延元年(1860)には本藍で染めた木綿縞が製造されるようになり、野良着などに適した堅牢な織物は「柳井縞」として全国にその名を馳せるようになった。

明治に入ると「高機(たかはた)」と呼ばれる織機も導入され生産が続けられたが、やがて社会の近代化の中で、藍染めによる手織りの素朴な木綿縞は時代遅れのものとして扱われ、明治末期から大正期にかけて急速に需要が減少。日常生活で使用される織物であったことから伝統染織工芸として確立することも叶わなかった柳井縞は生産されなくなり、ついには"幻"の織物となってしまった。

衰退から長い年月が経ち、その存在すらも忘れられつつあった柳井縞に改めて目が向けられるようになったのは、今から30年近く前。地元のある民家から、一台の古い高機が発見され、市へ寄贈されたことがきっかけだった。機体に「明治34年」との記述があるその織機はまさしく、かつて「綿替」制度により各家庭で柳井縞を織る際に使われていたもの。すべて失われたと考えられていたこの高機が見つかったことにより、柳井縞を復活させようという機運が高まり、有志により保存会「柳井縞の会」が結成されることになった。



とはいえ、一度は完全に失われた文化を再興させることは容易ではない。その運動の初期から復興・保存に尽力してきた「柳井縞の会」会長・石田忠雄氏は、壊れていた織機を修復し、四国や広島など各地に足を運んで機織りの技法を学んだ。
「実は当時あれほど盛んに織られた柳井縞の着物の現物が、すでに残っていないんです。高級品の織物と違い、普段着として着られたものだから、簡単に捨てられてしまうんですね。今も残っているのは、最盛期の明治ごろに使われた縞手本(生地の見本帳)だけですが、それらを見ると、タテ、ヨコとも双子糸(2本の単糸を撚り合わせた糸)を使用したものが多く、実に多種多様な縞柄があったことがわかります」



地道な活動によりその存在は徐々に認知され、現在では会員が80名、織り手は20名ほどにまで増加。今も「綿糸、縦縞、藍染」の原則を守りながら、伝統的な柳井縞の再現だけでなく、草木染めを中心に明るい色も加えた新たな柳井縞の制作にも取り組んでいる。


かつて柳井の商業の中心として栄え、今も白壁の古い家々が立ち並ぶ古市・金屋地区に残る、大正期に醤油の貯蔵庫として使われた建物を転用した「やない西蔵」では、柳井縞の機織り体験工房として数台の高機が設置され、幕末より伝わる同地の伝統民芸品「金魚ちょうちん」とともに並んでいる。このちょうちんも元々は柳井縞の染料を用いて絵付けされたものだという。庶民の暮らしに寄り添い、根付きながら、だからこそ失われてきた生活文化が、まさに手紡ぎの糸のごとく人々の手を通じて受け継がれ、その記憶を未来につなげている。


やない西蔵
742-0021 山口県柳井市柳井3700-8
文:井出幸亮
写真:深水敬介








